第38話《この世は比喩だ》

ここは山と海に挟まれた、とある田舎町。
町の中心から続く県道をしばらく走り、トンネルを抜けた先の小さな住宅街の一角。
地域の人に”イヤシロチ”としてこよなく愛されている鍼灸院がある。
その名も『鍼Go!堂』
ここで働いているのはたったの2人、どこか抜けているが患者の信頼は厚いGo院長と、立派な鍼灸師を目指す弟子2年目のまめちびだ。
おや?今日もなにやら会話が聞こえてきましたよ?
早速聞き耳を立ててみましょう。

Go: 左脳は言葉、論理、読み書き、合理的な思考、計算、時間の感覚を担当している。
右脳は感覚、全体のつながりを把握する能力、抽象的概念、シンボルの理解、絵や夢の領域を担当している。
このことは第16話で話した通りだ。
前回話した因果というものを区別すると、因果は左脳の領域だと言える。
左脳的な因果と言うものがあるなら、右脳的な何かがあり、二つ揃って一つなのだ。
因果的思考は時間、空間を前提とした理論的思考、その反対と言えるものは感覚的な思考、象徴的思考。
象徴的思考なんて言っても分かりにくいかもしれない。
象徴的思考は、こうなった原因はあれだ、と言う因果的思考ではなく、もっと感覚的なもの。
少し違った言い方をすると、この世界全てが「比喩」とも言われているんだ。

まめ: え?比喩って何かの例えでしょ?
全てが比喩ってことは、何の例え?

Go: そう、元に何か原型があることで存在する世界。
プラトンはそれをイデアと呼んでいる。
卵が先か、鶏が先か。こないだそんな質問をしたな?

まめ:ええ、トイレの中で質問されるとは思ってませんでしたけど。

Go: 元の鶏のイデアがあることで、はじめて鶏が存在する。
ここで有名なプラトンの洞窟の比喩を、わかり易く砕いて説明してみよう。

生まれた時から洞窟で、ずっと縛られたまま、後ろも上も下も振り向くことができず、洞窟の一番奥の壁を見ることしかできない。
見ることができるのは洞窟の壁に松明と何かによって映し出された影絵のみだ。
つまり、自分の後ろで様々な道具、木や石を使って人を作り、それが喋ったり黙ったりする影絵の劇を見ている。
しかし、生まれてこのかたその世界しか知らないために、それが現実だと思い込んでいる。
影絵の人形劇が、自分の人生のすべてなのだ。
ごくたまに拘束が解かれたものが、洞窟の外に出て、太陽や自然をみて本物の世界があることを知る。
戻って皆にそれを伝えても、信じるものは少ない。バカにされるだけだ。

まめ: マトリックスの世界だ。

Go: 私たちが生きてる世界の比喩が、プラトン的には洞窟、マトリックス的にはコンピュータで作られた仮想現実だ。
これらは幻想のようなもので、本当の世界があるという事だ。
その世界はプラトン的には洞窟の外の世界あり、マトリックス的には仮想現実から目覚めた世界。
これまで私らが信じてきた、この世界が本質ではなく、本質の世界があるかもしれない、ということを示唆している。

プラトンは本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界と言うのはあくまでイデアの《似像》(にすがた)にすぎない。
つまり洞窟の外がイデア、壁に映し出された影絵が外の世界の似像であると。
ほら、これはさっき言ってた象徴的思考ってところとつながってくる。

まめ: イデアの世界が本物で、この世界は偽物ってことじゃないですか。
なんか改めてこの世に絶望だわ。
こんな偽物の世界なら、やりたいことだけやろ。
明日から全財産使って、世界旅行行っていいですか?

Go: いや、君ねぇ。
絶望しなくてもうちに入ってから、インドに2回とマダガスカルにも行ってるよね?

まめ: 失礼ですね!ちゃんと毎回絶望してますよ!

Go: あ〜そうだったの、毎回ね…君どんな人生送ってんの…
話を戻すぞ、偽物じゃない、比喩の世界ってことだ。
比喩ということは象徴、シンボルであるとも言える。

私たちが「物理的な現実は比喩である、シンボルである」と言うとき、それは「この物理的な現実は鏡である」ということを言っています。
byバシャール

 

第39話

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。